金澤詩人 NO12
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53 にぎりめしを作ろうとしたのだ ひと粒ずつ口に入れる 母を照らす朝が窓のそばまで にぎりめしの具は紅い光 にぎる手から零れ落ちてゆく 過去分詞たちの落葉 僕は母の手をかたく固く握る 母の乳房のにおいが残る 鼻腔の記憶がまだ僕にある ほどけたにぎりめしにも 少しずつ崩れてゆく母に 自らの命をしっかり結ぶ力はない ゆっくりひと粒ずつ 残されたときを噛みあわせる 僕は母のかすかな寝息から 河のせせらぎが聞えてきた すべてのものを流してしまおう この世は一時の岸辺なのだから 母の便り 母はいつも大切そうに 財産とてない父のもとに 嫁入りした道具の三面鏡を拭いていた 鏡台におかれた螺鈿飾りの箱 そこにしまわれた一通の手紙 封もせず 宛名もないもの 小学生の僕はいたずら心のまま 母がいないとき 便せんを読んでみたが 流れる文字にあきらめ わずかに残る花のかおりが 僕の鼻腔に記憶を与えた 母がなくなり 忘れていた手紙のことを想い出し 剥げた螺鈿の箱には 枯れた水仙の花びらが埋まり ようやくあの記憶に辿り着いた わずかな歓びをおぼえた 庭を飾るものではなく 遠く離れた祖母から贈られた 海辺に咲いた水仙の株たち あの手紙は祖母宛てに 母は咲いたことを知らせたのか 数枚の花びらを添えて とても悲しいとき 水仙の花びらだけを封に入れ 心配をかけない願いを
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