金澤詩人 NO12
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42 蕎麦を噛み砕く感覚は 何とも秋風に吹かれるようで心地良かった 蕎麦屋から帰って 南瓜の煮付けが食べたくなり 単身赴任のわたしは大きな種を捌きながら 対雁の碑に運んで食べさせてやりたい そんな思いに駆られていた 捌いた手からは種の生臭さが仄かに 鼻を突き上げて 命を捌いたという死臭の感覚に襲われて 何度も両手の匂いを嗅いでみた 強迫的になって証拠が残ってしまったような 影を味わう 来てくれたのですね 恵庭岳から吹き渡る風がここを揺らしている 町の学校では 夏休みが終わって こどもの影と歓声は閑古鳥になった いつからか 人は影になったのか いつからか 人は影を気にしなくなったのか 雪の下に眠るおびただしい 言葉を封じられたまま踏みしだかれた 特定できないカゲボウシ 秋風が鮭の遡上を待ちわびる漁川 この街の湧き上る霊気を 忘れずに置くために 自転車に乗りながら 蕎麦屋で蕎麦湯を惜しみながら 飲み下す瞬間に 大きな吐息とともに 影を味わおうとする 影は糖質とともに血液脳関門を通って 大脳半球に風呂敷包みを運んでくれる その中に大切に保管されていた天然痘とコレラ罹患者を 野焼きした頭蓋骨の群落が 蕎麦を啜れないほど太い影の味にする そうだ この蕎麦は対雁の碑の周りで鳴っていた 季節外れの朽ちた風鈴の音色と重なって 蕎麦屋の釜戸に手を差し伸べて 暖を取っても取れないはずの幽霊咲子が 少しでも人間に戻ろうとしていた仕草だったのか 人間として暖を取りたかった存念からであったのか 今思い起こせば不思議な光景だったことを 思い出しながら 影蕎麦を噛んでご飯の様に咀嚼しなければ 飲み下せない太い存念の蕎麦屋で わたしは心臓の奥で咲子を呼び続けていた 会いたくて心臓が潰れそうな
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